「ZEROカルチャースピンオフ『メアリと魔女の花』ができるまで~ジブリという名の魔法が解けて…~」を見て思うこと

 こんにちはパシフィックです。

 今日は午後からの出勤だったのでたまたま10時過ぎまで寝ていたのですが、パッと目が覚めるとリアルタイムで深夜のアニメ視聴後つけっぱにしていたテレビから米林監督のドキュメンタリーが放送されていました。

 そうか、もうこんな放送してんのかと思いながらテレビを消してリビングに行くとリビングのテレビにも米林が。ビデオデッキを見ると録画を示す赤いランプがともっていたので家族のだれかがご丁寧に保存していることはすぐわかりました。

 そのまま顔を洗ったりしたあとボーッとしながら米林監督のドキュメンタリーを見ていたら、やはり改めてジブリというスタジオのすごさやアニメというものの難しさを感じさせられた。

 大衆映画や大衆の文化が出来上がって以来、どこの国でもコンテンツ産業は安く見られやすい特徴があるように思う。だからこそいつの時代でも贋作があるように、映像作品は海賊版が出回る。インターネットの無料視聴サイトも腐るようにある。どこかがダメになれば別のどこかで贋作が作られ、海賊版が売られ、動画がアップされる。こういう文化は本当にコンテンツ産業を破壊するからやめた方が良いと思いつつ、誰もが安く面白いものを見たいという欲求には抗えず脈々と続いてきた文化はそうそう消えるものではないとも思う。

 確かどこかの番組で誰かが言っていたが自分は1000円の映画を作っているのかと言っていた。この言葉の真意は何億もの大金を使って作った映画でも一人が払う金額は1000~1800円でその一人にとってはその程度の価値しかないものを作っているという意味である。端的に言えば労力に見合った価値が社会的に公式で認められていないという事だろう。海賊版はもちろん通常より安い値段で売られるから作品の価値を大幅に下げていることは単純に理解できるが、公式でも一人一人に対しての映画の価値が1000円~1800円しかないと言われているのは確かに作者としてはきついものがあるかもしれない。

 だからといって絵画の画商のような人間が映画作品一つ一つに相応しい値段を考えて観覧料を決めているのでは埒があかないし、映画を観る前に自分の期待以上の金を払えと言われて観る人間は少ないだろう。

 映像作品はその特性上期待度でその金を払って良いかどうか決める。絵画のように絵を見てから金を出す後払いではなく、先払い制なのである。

 一つの映像作品につぎ込まれる労力は絵画の絵師や漫画家、小説の作家と同等と言える。だが、作品媒体ごとで一人一人が払う金が違うのはどのタイミングで金を払い、社会的にどれだけ認められているかという非常に現実的な部分が大きいように思う。

 現代において絵だろうが漫画だろうが小説だろうが作品の価値を悲しくも決めてしまうのはどれだけ金が払われたかだ。映画は合計で何億という金が入ってくるが一人が払う価値は1000円前後、漫画は500~800円、小説は3000円前後。一人頭の払う金が公式で低く見積もられている以上、もともと労力に見合った返しがくる確率は少ない。それでやる気を失うのも当然の事だろうが現行以上の金の回収方法が浮かばない以上仕方がないというしかない。

 自分の知り合いにもアニメーターがいるが駆け出しの自分は3万しかもらっていないという。そもそもそれで生活できるのか疑問だがコンテンツ文化の担い手は常に疲弊していると私は思う。色々な葛藤と理不尽と戦いながらコンテンツ文化や産業を支えているのだ。

 それはある意味では職人の域であり、自分達は職人達が作った作品を公式において非常に安価に享受できることを感謝しつつ、作品に対して向き合い、楽しんで観ることが必要なんだと思う。