物の語り方とは

皆さんこんにちはパシフィックです。

先日新海誠展に行ってきました。

新海誠と言えばあの「君の名は。」の監督。

リアル以上にリアルな質感と美しさを描き出す彼の作風は現在多くの人々から称賛を受けている。そんな彼の作品を網羅した展示会は非常に目を見張るものばかりだったが、そこで一番自分が考えたのは「物語る」ということである。

展示会では新海誠という一人の人間が作品を通して自分の考えをどういう風に表現するか非常に迷い、その中で自分の表現の仕方をいかに獲得してきたかが非常に分かりやすく説明されていた。

人は自分の気持ちや考えを語る時、言葉や絵、歌といった何かしらの媒体を通して表現し、伝えていく。その時、自分に適した媒体であるかどうかは非常に重要なことでもある。歌の方が気持ちを表現しやすい人に、絵で自分の気持ちを完璧に表現してくれと頼んでもそれは難しいという単純明快な話だ。ただ、別の方向から考えてみると、その人を理解するには絵の方が良いのか、歌の方が良いのか、率直な言葉の方が良いのかという逆の読み取り方にも通用する話ではないだろうか。

そして、この逆にこちらが読み取る側に立った時、正しくその人や物を理解するのに適切な媒体を探すのは非常に困難である。そして、多くの人々はこの人はこの媒体が得意だと想定し、規定し、既存の枠組みを作り、それにそって発信する側を理解する。それは非常に人間らしい行動で、多くの人々が決めた既存の枠組みの中で対象を理解するという行為は非常に安心感があり、一回一回この媒体で対象を理解するのは適切か考える必要がなくなるため理解が早く進む。非常に効率がよく、分かりやすいやり方だと思う。ただ、それは特定の一側面でしか対象を理解できないということでもある。人だろうと、動物だろうと、無機物だろうとありとあらゆるものには必ず多様性と多重性が存在している。例えば、本当は絵の方が上手なのにも関わらず、周りからは歌の方がうまいと思われ、絵ではなく歌ばかりが評価される。逆に発信者自身は下手だと思っている分野が評価される場合もあるかもしれないし、発信者自身の意図した分野が評価されることもあるかもしれない。三番目の人は自分の得意だと思っている分野と周りから評価される分野が同じだから喜ぶかもしれないが、前者の二人は自分の意図した分野が評価されていないという部分で一致しており、人によってはそれにストレスを感じることがあるかもしれない。

これを考えると、その枠組みで対象を理解することが本当に正しく対象を理解することができているのか一度ぐらいは見直しても良い気がする。

別の見方や解釈を持って、対象を語る、説明するというのは案外、意外な発見があって面白いかもしれない。

本当にその見方で、媒体で、対象を理解し、語ることは適切か、一回一回考えるのは非常に手間で大変な労力だが一回ぐらいはやっておいて損はないのではないだろうか。