バーチャルYouTuber『キズナアイ』を考える。

こんにちはパシフィックです。

新しい会社に入ってもう一週間が過ぎましたが、自分はまだまだなんだと思わされることばかりです。

本来は先に私の私生活の話をしようと思っていたのですが、先日暇つぶしにユーチューバーについて調べていると面白いネタを見つけたので、そちらを先に書いていこうと思います。

みなさんはバーチャルユーチューバ―の『キズナアイ』を知っているでしょうか?

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Kizuna AI Official Website「http://kizunaai.com/」より抜粋

調べたところによると彼女は世界初のバーチャルユーチューバーらしく、自称インテリジェントなスーパーAIと名乗っているそうです。

実にポンコツ感満載の人工知能ですが彼女がYouTube上で運営しているA.I.Channel」は現在70万の登録者がおり、意外と本当にインテリジェントでスーパーなAIなのかもしれないと思わされます。

私が彼女に惹かれた理由はその企画内容の面白さ、バーチャルアイドルの捉え方です。

彼女の動画を見てみると人口知能のShiriと会話したり、オキュラスリフトをはめて初音ミクと対面したりと中々面白い。また、自分の中身はプログラムでできたデータであることや服はきていない、見えているのはひとつの側だけでいわば全裸でやっているという奇抜な考えも興味をそそられる。

彼女が上げている動画はmmdで作った3Dモデルの「キズナアイ」に声を当てて、モーションキャプチャーで動きを取り込んで動画を作っているのでそもそもAIではないですが、実際に人が声を当てて、モーションキャプチャーで動きを作ることでここまで3Dモデルに肉感がでるとは正直思っていませんでした。

これはこれで初音ミクとは別の面白みがあることは間違いないと思いますが、より感慨深いのはやはり上で挙げた動画の内容です。

仮に「キズナアイ」を完璧なAIと仮定してこの動画を見た時、AI同士の自発的な会話が将来あるかもしれないという点は非常に面白いと思います。

現状で「Shiri」や「女子高校生りんな」といった他の人口知能同士を人が物理的に仲介して会話させるということはyoutube上でもよくやらていることですが、ネットの中だけで人工知能同士が陰で会話をはじめる可能性が動画を見ていると感じられます。それこそSF映画でやられているような人工知能が人を分析し滅ぼすべきか考える、人工知能同士で人を分析し、結果を報告し合う中で心という概念を理解し人格のようなものを形成し始める等々、彼女を見ているとそんな可能性を考えさせられます。

また、「キズナアイ」がオキュラスリフトを被るというのは人工知能が3D体験をするとどういう反応になるのか、どういう風に見えるのか非常に面白いように思います。これを見ていると、それこそ、人工知能自身が様々なものに興味を持ち、自発的にそれを手に入れるために行動し、創造することさえ可能になるのではないかと考えてしまいます。

また、現在、彼女の3Dモデルを使って彼女風に振る舞うVRコスプレなるものが流行っているらしく、panoraの記者が取材時に自分のモデルが配布され、他人に自分風に振る舞われることについてどう思うか聞いた際には、モデルはただの入れ物であり、コスプレしてくれることは嬉しいと語っています。

中々このVRコスプレという発想は面白いのではないかと思います。

私たちはそもそもmmdの使い方を初音ミクが踊ってみた等、自分の好きなキャラが踊ってる所を見るための道具として使っていました。

ですが「キズナアイ」という3Dモデルを躍らせたり、音声合成でしゃべらせるとmmdという道具はバーチャル上において「キズナアイ」という存在になりきれる道具という認識へと変化する。それはある意味で、バーチャル上において最も自分らしい自分を作るための道具、最も簡便になりたい自分になれる道具としても使えるということなのではないでしょうか。

十数年前からネット上に自分の分身であるアバターを配置するという考えはありましたし、理想の自分にしようと服装や顔のパーツを考えた人も多くいたと思います。また、ゲームにおいてもプレイヤーの顔を理想の自分にしようとした人はいたと思いますし、特定のキャラクターを主人公にして、そのキャラクターになりきってゲームを進めるという考えは最近のゲームでは主流になっています。ただ、上記のやり方では完全に理想の自分、なりたい自分を実現できないというのが難点だったのではないでしょうか。微妙な等身のズレや顔のパーツの少なさ、統一的な動き方等自分の理想とする身体動作や表情を完全に表現できていなかったのは事実だと思います。しかし、mmdなら動きを自分で決められますし、顔の表情も自分で作ることができる。mmdを使ったバーチャルコスプレという考え方は中々個人的に面白い発想だと思います。

また、これらから考えるとやはり自分はバーチャル上に自分の意識を多く投影しているんだと改めて思います。なぜならば、もし自分の意識をバーチャル上に作った自分の分身に投影していなければ、現実ではなくてバーチャル上でコスプレをして特定の人やキャラになりきることで満足感を得るというのはあり得ないと思うからです。やはり、バーチャルの分身を自分と思えるからこそ満足感を覚えられるんだと思います。

また、ある意味人間がAIの真似をするというのも中々面白い現象かもしれません。人の真似をしているAIの真似を人間が真似するという意味不明なループ現象。

今まではバーチャル上のキャラクターに二次創作をどう思うか聞いたりすることもできませんでしたし、質問をして確実にそのキャラ等から答えが返ってきていると思うことが少なかったのでこういったことを気にせずに生きてきましたが、改めてなりきられている側のキャラクターからコスプレが嬉しいという話を聞いたり、肉感のあるAIを見せられるだけでここまでのきづきがあるんだと思ってしまいます。

やはり、人の発想や技術の進歩は様々な認識を変えていくんだと改めて思いました。

 

退社した日、入社した日。

こんにちはパシフィックです。

僕が商社に入社してもう5日が過ぎました。

本来なら21日とかにブログを更新すべきなのかもしれませんが、諸事情があって遅くなってしまいました。

僕は7月20の深夜0時30分をもって晴れてパチ屋を卒業し、食品関係の商社に入社しました。

21日から来いと言われていたので、疲れは全然取れないまま新しい会社に朝早くから行くと、初日はパソコンや倉庫の説明で終了。現在も事務処理を覚えるためにパソコンをいじることしかしていません。

正直もっと激務を予想していたので拍子抜けといえば拍子抜けです。もっと、がつがつメーカーさんやスーパーさんに挨拶に行き、日々の外回りで疲れきったあとに事務処理をさせられるというイメージがあったので丁寧に指導してもらえているのはとてもあり難いことだと感謝しています。

正直、営業という会社の顔になるような大役を自分ができるのか、入る前は不安の方が多かったですが、やはりなんだかんだやれる仕事を用意してもらえるし、早く一人前になれるように指導もしてもらえる。こういった環境は大事なんだ改めて思います。

別にパチンコの時が丁寧に仕事を教えてもらえていなかったわけではないですが、精神的に余裕がある環境で学ぶということも必要なことだと思います。

僕がパチンコを退社するときは同期の人間と僕たちの管理をする人間だけだったので、色々と学ばせてもらった主任には挨拶ができなかったこともあり、少し悲しく、うしろめたさのようなものも感じましたが退社とはそういうものだとも思います。

まだ色々と返さなければいけないものもあるので前職とのつながりが完全に切れたわけではありませんが、僕は20日の深夜をもって商社の人間になりました。向こうから見れば完全な裏切者に見えても仕方ありませんし、自分の経歴に傷をつけたことは紛れもない事実です。

だからこそこれからをどうしていくかなんだと改めて思います。

本当に心配してくれた上司の方々に対して、こうなりましたと胸を張って生きていける人間になりたいですし、なるべきなんだと思います。

そのためにも今の仕事を精一杯やりたいと思います。

パチンコ屋で学んだことについて少し書いてみる。

 こんにちはパシフィックです。

 深夜の3時にブログを更新しておいて「こんにちは」はないだろうと思いつつ、深夜アニメをリアルタイムで視聴したせいで幾分か目が冴えてしまったので、いい機会なので今まで考えてきたが書く機会を逃していた内容を書こうと思います。夜というのは皆おかしなテンションになるのが常ということで、御多分にもれず自分も変なテンションで書いているのかもしれない。普段のクソみたいな駄文がより中二くさい駄文に変わるかもしれないことを事前にお詫びしておきます。

 私はあと一週間後に次の転職先へ行くことになります。

 ただ、今の職場がそこまで悪い職場かというと別に可もなく不可もなく普通という感じ。問題なのはパチ屋の店員という社会的立場とボーナスが夏と冬両方とも出ないことぐらいです。あとは休みが少なく、いつも結構忙しいことも追加しておきましょうか。

 なんだかんだ言っても自分がこの職場から社会人をスタートできたことは悪くなかったんじゃないかと思っています。恐らく初めて入社したところが普通の会社で普通のオフィスビルで営業だの事務処理だのをやっていると一ヶ月も持たずに辞めていたかもしれません。

 ここでは色々なことを学びました。8時間ずっと拘束されるとはどういうことか。その中でも正社員における立場や考え方、すぐに仕事をさぼることすらできないこと等ありとあらゆる社会人がまず出会う部分をゆっくりまったり経験させてもらったことは非常にいいことだったと思います。

 また、最近では社会人の勉強というものがどういうことか分かってきた部分もあります。社会人が勉強する内容は業務においていかに失敗をしないか、その方法を知るという要素が非常に強いということです。学生の場合は答えを導き出すために勉強して方法を知ろうとする要素が強いと思います。この違いが私にとっては結構重要なことなのです。

 私は退職の面談を何回かした時に上司から君には足りていないものが多すぎる、本意気で仕事ができていないと言われ続けていたが、勉強の違いについて理解することでこの言葉の真意を理解することができた。

 私は業務内容に関して相談することが少な過ぎたのだ。もちろん直接の仕事のやり方に関わる部分について質問していたが、それでは足りなかったということに最近ようやく気づくことができた。例えばレジを打ったことはあるが、そのレジのお金がどういう処理をされて本社や店の売り上げに反映されるのか知らなくてもレジは打てる。だが、上の役職に就くためにはその知識は不可欠であり、レジ関連でのトラブルが仮にあった時はどういう処理をされるのか知っておけばより迅速な対応につながる。そういう直近の業務には関わらないが知っておいて損はない知識を貪欲に知っていこうという気が無かった部分が自分の最も向上心が無かった部分だと思う。

 学生の頃は目の前の課題のクオリティーを上げることで良い点数をもらうという、勉強が直接成功に繋がる側面が強いが、社会人の場合は失敗をしないために話を聞いて業務に当たった結果成功するという学生の勉強とは違い一つ捻った形で成功が手に入る側面が強いと思う。

 だからこそ、社会人は成功をより多く得るために失敗の回避方法を学び、より高い地位に就こうとするのだろう。逆に言えば日常の仕事を本意気でしていればそういった業務内容に直接関わってこないが必要な知識について質問がわんさか出てくるはずであり、それがないのは成長する意欲が無いと思われても仕方がないように思う。

 このことに気付けたことはやはり大きいように思うし、次の仕事でも生かせる部分なんじゃないだろうか。

 色々他に書きたいこともあるがそろそろ眠くなってきたので寝ようと思います。皆に良き睡眠が訪れることを祈って私も眠りに落ちます。

 おやすみなさい。

働くって青春か?アニメ『NEW GAME!』のキャッチコピーを考えてみる。

 こんにちはパシフィックです。

 今期の夏アニメもだいぶ出そろってきて、働いてもなお今期全作品の一話は必ず見ようと思う気持ちが未だにあることに驚いている今日この頃です。

 今期はだいぶ面白い作品が多いように思います。バトルものではfateがありますし、日常ものでは妖怪アパートやアホガール、恋愛ものでは恋と嘘捏造トラップ。様々な様態の作品はありますが今回は今期の放送が二期目にあたる『NEW GAME!』のキャッチコピーを少し考えていきたいと思います。

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NEW GAME!」のキービジュアル (c)得能正太郎芳文社/NEW GAME!製作委員会

  この「NEW GAME!」はイーグルジャンプというゲーム制作会社に入社した女の子涼風青葉が一癖も二癖もある先輩達と共にゲームを作っていく日常を描いた作品。

 どうやら今期から青葉は社会人二年目になるので社会人一年目の僕から見ればどうやら先輩に当たるようだ。青葉パイセンちーすである。

 そんなことはおいておくとして、タイトルでも言っているがこの「NEW GAME!」はキャッチコピーに働くって青春だ。というキャッチコピーを使っている。このキャッチコピーは一期目でも言われていたが、その当時から自分は懐疑的な目でこのキャッチコピーを見ていた。

 確かに青葉の職場のように面白い先輩方がいればある程度仕事も楽しいかもしれない。特に青葉はゲームが大好きという特性を持っているからゲーム作りが楽しいのは当たり前なのかもしれない。

 ただ、多くの人が自分の好きな職業や自分に合った仕事に就けるわけではない。そもそも青葉のように自分の趣味を仕事にして挫折しない人間は中々珍しいように思う。例えば、犬が好きな人間がペットショップの店員になって犬を商品として売り買いする現実に嫌気がさしたり、本が好きで書店員になった人間が予想以上にハードですぐ辞めたくなるという話はよくある話。

 きっと青葉にも辛い事は多いはずである。例えば一期目でゲーム内のNPCを百体作れと言われたシーンがあったが普通に考えて百体も永遠とNPCを作っていくのはしんどいはずである。また、八神さんがいつも泊まり込んで仕事をしているのは自分の力ではそれだけやらないとゲームの納期や次の作品作りに差支えが出ると考えているからだろう。

 仕事というのは学生の延長ではない。それで金を貰う以上はプロのクオリティーが要求される。生半可なものを出したが最後社会から信用を失い抹殺される可能性すらある。そんな切羽詰まった状況の中でみな仕事をしているのだ。

 そのため、単純にどんな仕事でも青春できるというのは間違いな気がする。だが、青春ができないというのも違う気がする。

 「NEW GAME!」に出てくるキャラクター達がそこまでしんどい思いをしてゲームを作るのはやはり最後に達成感のようなものがあるからだろう。自分が手塩にかけて作ったものが色んな人に認めてもらえるのはやはり嬉しい事だろうし、それが無ければ続けられていないのではないだろうか。

 つまる所、仕事で青春を感じられるかどうかはこれだけの労力をかけて良かった、労力をかけた甲斐があったとどこまで思えるかなんだと思う。

 ただ、これだけの労力をかけて作ってとても良かった。仕事をした甲斐がめちゃくちゃあったと思える仕事に就ける確立は非常に低い。もしかしたら無いのかもしれない。

 だが、少しでもそう思える仕事に就けているのであればそれはとても喜ばしいことであり、素敵なことだと自分は思う。

「ZEROカルチャースピンオフ『メアリと魔女の花』ができるまで~ジブリという名の魔法が解けて…~」を見て思うこと

 こんにちはパシフィックです。

 今日は午後からの出勤だったのでたまたま10時過ぎまで寝ていたのですが、パッと目が覚めるとリアルタイムで深夜のアニメ視聴後つけっぱにしていたテレビから米林監督のドキュメンタリーが放送されていました。

 そうか、もうこんな放送してんのかと思いながらテレビを消してリビングに行くとリビングのテレビにも米林が。ビデオデッキを見ると録画を示す赤いランプがともっていたので家族のだれかがご丁寧に保存していることはすぐわかりました。

 そのまま顔を洗ったりしたあとボーッとしながら米林監督のドキュメンタリーを見ていたら、やはり改めてジブリというスタジオのすごさやアニメというものの難しさを感じさせられた。

 大衆映画や大衆の文化が出来上がって以来、どこの国でもコンテンツ産業は安く見られやすい特徴があるように思う。だからこそいつの時代でも贋作があるように、映像作品は海賊版が出回る。インターネットの無料視聴サイトも腐るようにある。どこかがダメになれば別のどこかで贋作が作られ、海賊版が売られ、動画がアップされる。こういう文化は本当にコンテンツ産業を破壊するからやめた方が良いと思いつつ、誰もが安く面白いものを見たいという欲求には抗えず脈々と続いてきた文化はそうそう消えるものではないとも思う。

 確かどこかの番組で誰かが言っていたが自分は1000円の映画を作っているのかと言っていた。この言葉の真意は何億もの大金を使って作った映画でも一人が払う金額は1000~1800円でその一人にとってはその程度の価値しかないものを作っているという意味である。端的に言えば労力に見合った価値が社会的に公式で認められていないという事だろう。海賊版はもちろん通常より安い値段で売られるから作品の価値を大幅に下げていることは単純に理解できるが、公式でも一人一人に対しての映画の価値が1000円~1800円しかないと言われているのは確かに作者としてはきついものがあるかもしれない。

 だからといって絵画の画商のような人間が映画作品一つ一つに相応しい値段を考えて観覧料を決めているのでは埒があかないし、映画を観る前に自分の期待以上の金を払えと言われて観る人間は少ないだろう。

 映像作品はその特性上期待度でその金を払って良いかどうか決める。絵画のように絵を見てから金を出す後払いではなく、先払い制なのである。

 一つの映像作品につぎ込まれる労力は絵画の絵師や漫画家、小説の作家と同等と言える。だが、作品媒体ごとで一人一人が払う金が違うのはどのタイミングで金を払い、社会的にどれだけ認められているかという非常に現実的な部分が大きいように思う。

 現代において絵だろうが漫画だろうが小説だろうが作品の価値を悲しくも決めてしまうのはどれだけ金が払われたかだ。映画は合計で何億という金が入ってくるが一人が払う価値は1000円前後、漫画は500~800円、小説は3000円前後。一人頭の払う金が公式で低く見積もられている以上、もともと労力に見合った返しがくる確率は少ない。それでやる気を失うのも当然の事だろうが現行以上の金の回収方法が浮かばない以上仕方がないというしかない。

 自分の知り合いにもアニメーターがいるが駆け出しの自分は3万しかもらっていないという。そもそもそれで生活できるのか疑問だがコンテンツ文化の担い手は常に疲弊していると私は思う。色々な葛藤と理不尽と戦いながらコンテンツ文化や産業を支えているのだ。

 それはある意味では職人の域であり、自分達は職人達が作った作品を公式において非常に安価に享受できることを感謝しつつ、作品に対して向き合い、楽しんで観ることが必要なんだと思う。

『僕のヒーローアカデミア』を見ていて思うこと。

 こんにちはパシフィックです。

 現在退職するまでの時間を何のミスもしないように細心の注意を払って生活している自分ですが、自分がこのブログを立ち上げた元々の理由はアニメ等のサブカル作品から考えたことを徒然なるままに書こうと思ったことでした。決して転職の話をするために立ち上げたものではありません。なので今回は本来のブログの趣旨に沿って、ジャンプ作品で現在アニメも放送されている『僕のヒーローアカデミア』において最も重要な「個性」というものを現代の社会と照らし合わせて考えていきたいと思います。

「僕のヒーローアカデミア 著作権フリー」の画像検索結果

僕のヒーローアカデミア」のキービジュアル(C)堀越耕平集英社僕のヒーローアカデミア製作委員会・MBS

 この作品は人口の約8割が“個性”という特殊な能力を持つ社会において、“個性”を持たずに生まれてきてしまったが、それでもなお個性を悪用する犯罪者「敵(ヴィラン)」と戦う「ヒーロー」に憧れた緑谷出久が、No1ヒーローのオールマイトと出会うことで最高のヒーローになるために努力していくという物語。

 この作品において自分が最も興味深いと感じたのは個性というものの扱い方です。本作では人口の8割が何らかの能力を持った超人です。そしてそれだけ能力が溢れていれば能力に優劣が付けられるのは当然のことです。作中の一番初めの段階で爆轟が没個性だの無個性だのと言っていましたが、自分は良い個性>没個性>無個性という順番で優劣が付けられているように感じました。緑谷が通う中学校の先生ですら「みんな良い個性だ」と教壇から生徒を見渡して言うシーンがあるのでやはりこの超人社会においてどういう個性を持っているのかは非常に重要なことなのでしょう。

 また、先生が生徒の進路希望調査を実施しようとする時、調査シートをばら撒いて「みんなヒーロー科志望だよね」と言っているので、ヒーローという職種の注目度が高いことを考えると、良い個性の中でもいかにヒーロー向きの個性を持っているかが一種の社会的なステータスになっているようにも感じます。

 しかしながら、先生が教壇から生徒を見渡すシーンでは没個性と思わしき生徒達が個人的にですが多く見られたように思います。例えば、目が飛び出ているだけの生徒や指が伸びるだけの生徒、顔が膨らんでいる生徒や顔が光っている生徒、あとは首が伸びる生徒等見ただけでも敵と戦うような戦闘向きの個性ではない生徒が多いように思います。諸事情で画像は出せませんがこれから考えると超人社会においても必ずヒーローになれるだけの個性が発現するとは限らない。むしろ没個性の人の方が圧倒的に多いということがこの一場面だけでも伝わってくるように思います。

 ではここで描かれている個性を現代の社会に例えてみるとどうなるんでしょうか。現代においても優秀な人はたくさんいるでしょう。それこそ、お金が重要なこの世界において成功した人は何百人といます。アップル社の創業者のスティーブ・ジョブズマイクロソフト社のビル・ゲイツ等々。ですが社会はこういったいわゆる良い個性を持った人たちだけで回っているわけではないでしょう。没個性のようなちょっとした一芸や特技を持った人が大多数です。そう考えると、社会において特別に成功できる人間はわずかであることが分かります。また、何もやってこず、何も持たない、いわゆる社会に適応できていない無個性のような人間が相手にされないのは当たり前なのかもしれません。

 ただ、この作品で面白いのは個性を使いこなすために努力が必要である部分が描かれていることです。例えば、雄英高校に推薦で入ってきた轟焦凍の過去はNo2ヒーローのエンデヴァ―からきつい特訓の日々を強いられてきた辛いものであったことが劇中で明かされます。つまり、強力な個性は素養も大事だがそれを扱うためにはその個性の特性を理解した上で、発現させることが重要ということです。

 この部分は現代の社会でも同じではないでしょうか。自分の得意分野を理解し、自分が今どのレベルなのかを他者から理解し、自分を更に磨き上げていく。そうやって能力が足りていない部分を補っていくことで他者から認められたり、あるいは信頼されたりする。頑張ることを強制される社会であると同時にそれはこの社会で生き延びていくためには必要なことであるとも言えます。

 何ももっていない自分でも探して、探して、探して、少しは磨きをかければ社会は認めてくれるのではないでしょうか。そうでなければ無個性の自分はこれからのたれ死ぬことになってしまいますからね。

【報告】今更だが商社マンになることに決めたので色々書いていこうと思う

 こんにちはパシフィックです。

 現在、紆余曲折の話し合いの末、退職日を20日に設定してもらって、退職日までをカウントダウンしている状況です。そこで、ようやく色々と落ち着いてきて時間も取れるようになってきたので色々あったことを書いていこうと思います。

 まずはタイトルの通り今まで言い忘れていましたが転職先を食品関係の商社に決めました。もともと6月の25日には決まっていたのだが退社日の交渉や入社日の調整等で忙しく報告できなかった。

 今回決めた理由は単純に大手だからとかではなく次に繋がると思ったから。

 今の社会状況において有名企業や大手に就職したからといって一生安泰を約束されるわけではない。あの東芝が上層部のミスで多額の負債を背負い主要事業を売り飛ばすことになったり、エアバック事業で有名なタカタが商品のリコールで倒産にまで追い込まれることもあり得る時代なのだ。いつ明日は我が身で路頭に迷うか分からないそんな中でずっと生き残っていくには会社にしがみつくのではなく、いかに会社がいつ倒産しても良いように技術を磨き、高い実績を作っていくかなのだと思う。

 そういう意味で商社であれば色々なことを経験できるだろうし、実績も作りやすいと思ったというのがそっちに決めた理由。

 ただ決めたは良いもののよくよく考えたら一つ問題があることに気付いた。自分は食物アレルギーでピーナッツとハチミツが食べられない。

 もし、食品メーカーとの交渉で新商品の試食を求められた時いったいどうすれば良いのだろうか。入ってたら食えないじゃんか・・・

 やはりどんな会社でも一つや二つくらいは欠点があることを知れたことはいい社会勉強になった。