俺ガイル再考 26歳の俺から18歳の俺へ

皆さんこんにちは。パシフィックです。

実に久々の更新になってしまって自分でもよく忘れていなかったなと少し驚く次第である。

今回は現在第三期の放送を控え、地上派で再放送中の「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。続」について、高校生だった当時からだいぶ年月も経ち、この作品についての捉え方が変わってきたことに気づいたので、それを述べていきたい。

 

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 BS日テレHP やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続https://www.bs4.jp/oregairu/」より抜粋

 

 この作品は元々第一期から続くもので、今回紹介するのは第二期目に当たる。第一期の放送自体は2013年で、2013年当時と言えば自分が高校から大学に入った年であって、陰鬱としていた人間関係に飽き飽きしていた時だと言えよう(※今は人間関係を陰鬱としたものとは捉えておらず、楽しくやっています笑)。

そして第二期目といえば奉仕部の比企谷八幡雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣がそれぞれの想いを素直に話し合い、関係性を再確認していこうとする第8話が非常に有名で、各キャスト陣が最高の演技を示した回とも言えよう。

この作品で、シリーズを通して重要な要素になるのが「本物の関係性」というものである。

この作品の主人公である比企谷八幡は実に捻くれた人物で、青春は噓であり、悪であるという名(謎?)言を残している。これを見る限り、純粋に高校生活を楽しむ人物ではないことは容易に想像できる。

そんな捻くれ者の彼ではあるが、奉仕部という組織に所属し、奉仕部に寄せられる依頼をこなしていく中で、自分が奉仕部に居心地の良さを感じていることに気づく。そして、今まで自分が嫌っていた偽りの形骸化した形だけの関係であっても奉仕部を残そうと行動に走り回ったのが第5話である。第5話で彼は一色いろはを生徒会会長に当選させて雪ノ下を奉仕部に存続させた。これにより、比企谷八幡雪ノ下雪乃の関係性は非常に薄っぺらいものになってしまったと言えよう。そして、その関係性のまま時は進み、8話での話し合いで自分達の価値観を共有し、関係性を再確認していく話に繋がっていくのである。

自分がこの作品への捉え方が変わったなと思ったのがやはり第8話。18歳当時の自分は第1期を見てから比企谷八幡の考え方にシンパシーを感じていて、恐らく当時の自分が求めていたものも比企谷八幡と同様、「本物の関係性」だったのだろう。他人と分かり合いたいがそれを実現することは非常に難しい。相手のことを知るのは難しく、それによる齟齬が生まれるのもまたしんどい。どう対処していいかも難しく、その対処方針は個々それぞれでバラバラだ。であれば、他者との関係性などどこまで必要なのか。全ての他者に均一化した平等性を以て接するにはマイナス方向での接し方しか存在しない。そんな風に中二病をこじらせていた自分は考えていた。そんな自分が2015年に放送されていた8話の回を見た。その時自分は単的に言って彼ら全員が納得する「本物の関係性」の構築について、具体的にどうすれば良いのか、解決方法が分からなかった。比企谷八幡の言う本物とは「相手を完璧に理解し、自己満足を押し付けあって、それを許容できる関係」だ。方や雪ノ下雪乃は「言葉にせずとも自然と互いが分かり合える関係性」。そして由比ヶ浜結衣は「何でも話し合って解決していける関係性」。これら全ては似たようなものに思えるが、この価値観の相互矛盾は絶対に誰かが考えを変えないと成立しない状態なのである。

まず、明らかに分かる部分から言って雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の価値観は確実に矛盾している。言葉にしないと意図や考えが伝わらない関係性を雪ノ下雪乃は「本物の関係性」と認められないからである。そして、由比ヶ浜にとってその価値観やそれに基づく行動様式は「ちょっと、ずるいと思う」に集約されるのである。

そして、比企谷八幡由比ヶ浜結衣について、八幡はその話し合いの中で言葉が欲しいのではないと言うのである。もちろん話さなければ分からないのだけれど、八幡はどうしてもその言葉の裏を想像し、解釈してしまう。言葉はいくらでも繕えるものであり、仕草や行動もまたそうだからである。その行動の真意は本人が何かしらの方法で発しない限り分からないし、受け取る側は出された情報に偽の情報が混じっている可能性がある以上、完璧に受け取ることは不可能で、どうしても解釈の余地が生まれる。だからこそ八幡は「完璧に相手を理解し、自己満足を押し付けあえる関係性」が本物なのだと考える。そういう意味では、由比ヶ浜にとっての「本物の関係性」と決別はしないまでも、話し合えば分かり合えるという由比ヶ浜の価値観では八幡にとっての「本物の関係性」は充足されないだろう。

そして、八幡と雪乃の「本物の関係性」について、両者の価値観は非常に似ていて、八幡と雪乃自身も唯一分かり合える存在なのではと思っていた程であるが、ここにもある一定の齟齬が生じる。雪乃自身は言葉にせずとも察することで分かり合える事を良しとするもので、八幡自身の価値観とは矛盾はしないだろう。だが、雪乃自身はその価値観に基づいて行動する結果、情報を極力出さないという形で行動する。それについては八幡も同様で言葉やボディーランゲージによるコミュニケーションによる関係性を本物としないのだから、自然と情報の発信量も少なくなってしまう。その結果、行動様式が似たものになり、見た目は互いに同じ様に見えてしまって八幡と雪乃は互いに自己を投影し合うのだが、お互いの根本的な価値基準や理念、行動規範が異なることを知ってしまう、嫌でも分かってしまうのである。その結果、八幡は相手を完璧に理解できていないと考え、雪乃は察するだけで分かってもらえていないと考え、互いにこれは「本物の関係性」ではないと悟ってしまうのである。

当時の自分にとってこれは非常に難題で、どうしようもないなぁと諦めていた。

そして一応の回答として、13話の中で由比ヶ浜の回答は基本的に正しいと明示されるのである。

ただ、当時の自分にとってどうしてもこの帰結は納得がいかなかった。どちらかが価値観を折らねばならない。考えを変えねばならないという帰結に賛同できなかったのである。

この非常に面倒で説明がしづらく、他人からみたらどうでも良いような命題ではあるが、ここ最近になってようやく結論が自分の中で出始めたのである。それはある意味で13話でも既に述べられていた。「間違ってもいい、そのたびに問い直して、問い続けるんだ」これは比企谷八幡の言葉で、所謂「この戦いはまだ続く、俺たちの戦いはこれからだ」に代表される俺ただエンドと言われるものだと思われる。

当時の自分にとって、自分の考えを変えることは悪で、初志貫徹することは美徳であるという認識を持っていた。だからこそ、誰かが折れなければいけない状況に納得ができなかった。ただ、ここ最近とあるMMORPGをやっていて、気づかされたことがある。

基本的に価値観はアップデートするものだということである。特定の集団に属せばその集団ごとで良しとされる価値基準があり、別の集団にはそこ独自の違った価値基準がある。完璧なまでに初志貫徹している人など誰もおらず、社会はそれを求めていない。むしろ、各グループ毎で価値基準が違う中、どこでも同じ対応をするなんてのはストレスの元であり、柔軟に各グループに合った対応をすることが望ましい。勿論、一般大衆に影響力がある公人であれば話は変わってくるだろうが、私人であればそこまで強く、考え方は初志貫徹すべきだと他者から要請されることは無いだろう。

そう考えると、自分の価値観ってのは変えても良いもので、その度に直していっていいものだと、別に変えることは嘘つくことではないんだと、そう思えると非常に色な肩の荷が下りた気がした。

今の俺から当時の俺に言いうことがあるとすれば、「肩ひじ張らずにもっと楽に生きても良いんじゃないか?自分の考えを変えることは嘘をつくことではないし、昔から持っていた考えを変えること、踏襲しないことは昔の自分を否定することではないぞ?価値観は日々アップデートしていくもので、懲り固めていく必要などない。」こんな感じだろうか。

まあ、それはある意味で大多数の共通認識がそのグループにおける正しい考えになってしまうため数の暴力は良いのかという話になり、それに合わせることは良いのかとか、そういう話になってくるが、ひと先ずこの論点は端においておこうと思う。

兎にも角にも人生は俺ただエンドだ。試行錯誤して、正しいものは何か日々間違いながら探し続けている。

色んな間違いの上に成り立っている人生というのも乙なものだろう。